人は、かけられた言葉のほうへ育っていくのかもしれない
こんにちは!ももとです。
今日は「言葉が人をつくる」という話を書きたいと思います。子育てのこと、自分自身のこと、そしてまわりの人との関わり方について、少しだけ立ち止まって考えてみました。
相手の言葉で、自分を知ることがある
誰かに「丁寧に見てくれてありがとう」と言われたとき、「あ、私ってそういうふうに見えていたんだ」と気づくことがあります。自分では意識していなかったのに、相手の言葉で初めて自分の輪郭が見えてくる感じで。
そして不思議なことに、その言葉に寄っていこうとする自分がいるんです。
「安心しました」と言われたら、「じゃあそういう人でいたい」と思う。「よく気づいてくれますね」と言われたら、「もっとそういう目で見ていよう」と思う。最初から立派な自分だったわけでもないのに、相手から言葉にしてもらうことで、なりたい自分に少しずつ近づいていく気がするんですよね。
人は、自分ひとりで自分のことをわかっているようで、実はそうでもないのかもしれません。
どんな言葉をくれる人といるかは、意外と大事です
だから、自分にどんな言葉をかけてくれる人と関わるか、というのは結構大事なことだと思っています。
「どうせできない」「また失敗した」「そういう人だよね」——そういう言葉が続くと、知らないうちに自分をその枠の中に合わせてしまうことがあって。逆に「ちゃんと考えてくれているよね」「最後まで見てくれるところがあるよね」と言われると、その言葉に見合う自分でいたくなります。
これは、お世辞を言い合えばいいという話ではないんです。その人の中にある良い面を見つけて、言葉にして返す。それだけのことなんですが、それが思っているより難しかったりします。
子どもに渡す言葉は、子どもが自分を見る鏡になる
これ、子どもに対しても全く同じことが起きていると思ってて。
「何回言ったらわかるの」「どうせまたやらないでしょ」「片づけが苦手だね」——そういう言葉を繰り返し浴びていると、子どもはその言葉で自分のことを見てしまうかもしれません。もちろん、親だって余裕がないときはあります。というかまあまあない。毎日同じことで困ることもある。言いたくなる気持ちは本当によくわかります。
でも、言葉は子どもの中に残ります。
だからこそ、言葉を少しだけ変えてみたいなって。「なんでできないの」ではなく「どこで困っているのかな」と聞いてみる。「また怒ってるね」ではなく「本当は何をわかってほしかったのかな」と聞いてみる。「どうせ無理でしょ」ではなく「どこからならできそうかな」と聞いてみる。
「できない子」として見るのか、「困りながらも考えようとしている子」として見るのか。同じ場面でも、親の言葉で子どもの自己像は変わります。
質問には、相手をどう見ているかが出る
「質問を増やしましょう」というアドバイスをよく聞きますが、そこには落とし穴があります。問いの形をしていても、相手を責める問いになってしまうことがあるからです。これほんとやりがち。
「なんでできないの?」には、できない前提があります。「どこで困っているの?」には、困っている場所がわかれば進めるかもしれない、という前提があります。子どもはその空気をちゃんと受け取っています。そして少しずつ、「自分はできない人なんだ」と思うか、「自分は考えれば進める人なんだ」と思えるか、が変わっていくのだと思ってます。
今日の小さな問い
今日、誰かにかける言葉をひとつだけ変えるとしたら、どんな言葉にしますか?
言葉を変えることは、相手を変えようとすることではなくて。こちらの見方を、少し変えること。そして、その見方は相手に伝わります。
私もそういう言葉を渡せる人になりたい。子どもにも、家族にも、「あなたの中には、こういう良さがあるよ」と返せる人でいたい。人は、かけられた言葉のほうへ育っていくのかもしれないから。
また次回も、日常の中で見つけた「親子の関わりが少しラクになる問い」を書いていきます。




自分も以前「あなたは何も変わってない、結局そういう人だよね」と言われたことがあります。自分の中では精一杯努力して、学習して、行動した事が、たった一言、1フレーズでずっと自分を縛り続けることになりました。
今でも思い出すと苦しくなりますし、大切な人ほど尊重するべきだし、安心感の中でしか共存はできないと学びました。共感のあまり自分語りしてしまいました💦
言葉はココロの中に残る。。。
自分の経験の中にもあるし、子供の成長をみていて気づくこともありますね。
言葉は言霊と言うぐらいなので、
その強さをしっかりとかみしめながら
ちゃんと言わないとアカンわと
気付かされました。
ありがとうね🥰🦌